途中下車(池上駅・池上線の駅名の由来)

  ♪♪♪西島三重子の(池上線)& 池上のお店いろいろ etc

池上線の五反田駅から蒲田駅までは[15駅(所要時間22分)」あります。
今まで通勤や通学で何度も行き来した駅やその周辺も、意外と降りたことがなく、 その地域のことを何も知らないという方も多いことと思います。

時間がある方は途中下車し、知らない街のぶらり旅もいいかも知れませんネ!
西島三重子さんの池上線を聴きながら、駅名はどうして決められたのか、 その由来、また、城南散歩、池上のお店いろいろをリンクしましたので、おいでの際は参考にして下さい。


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昭和34年ごろの池上駅

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現在の池上駅

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☆東急5000系電車 (初代)は「青ガエル」
「雨ガエル」などの通称で利用者に親しまれた。















































★ 駅名の由来 ★

・・・五反田・・・
江戸時代に「五たんだ」として出現した地名。目黒川の谷がほぼ東西に流れ、 その谷周辺の水田が一区画が5反(約5000m2)あったために名づけられた。

・・・大崎広小路駅・・・
大崎という地名が現れたのは江戸時代という説が有力である。地名は秩父から続く尾崎 であることに由来し、これが転訛して大崎となったとする説、および過去に大きな崎(岬) として東京湾に突き出ていたためとする説が知られています。ただし当時大崎と呼ばれてい た地域は現在のJR目黒駅近辺(上大崎村)から五反田駅北側(下大崎村)にかけてである。 広小路とは道路幅の広い街路「中原街道」のことで、駅のすぐ脇にある大崎広小路に由来する。

・・・戸越銀座駅・・・
駅からすぐの戸越銀座商店街に由来する。所在地は「平塚」であることから「平塚駅」 になる予定だったが、既に同名の駅が東海道本線にあったため知名度の高い「戸越銀座」 が選ばれた。

「戸越」の名は、室町時代の文書にみられるほどの歴史があるのですが、その地名の由来 は定かではありません。 一説には「江戸越え」が省略されたとするものがあります。その後近世を経て、明治時代 には荏原郡戸越村として行政上も位置づけられ、戸越の地名は現在に至るまで地元に根付 いて伝えられてきました。

関東大震災が発生し、東京都中央区の「銀座」は壊滅的な打撃を負ってしまいました。一方、 戸越では周囲に竹藪が多かったせいもあって地盤が強く、被害が最小限で済んだために、 この地に新規の商店街を作ろうという気運が高まってきました。

ちょうど銀座が痛んだ道路をアスファルト化する塗装工事のために、それまでの舗道を 撤去するという話を聞きつけた戸越の人々は、大八車で繰り返し往復して敷石を譲り受 けました。

人々は道路に治水のための暗渠を作り、雨の後の車輪による轍が往来の妨げとならないよう に、銀座から譲り受けたレンガの敷石をひとつひとつ通りに並べていきました。 昭和2年の商店街の発足に当たっては、レンガと共に「銀座」の名称も譲り受けて、 「戸越銀座」と名付けられました。

現在、「銀座」という名を冠する商店街が日本全国に約300以上あるといわれていま すが、中央区の銀座に次ぎ銀座名を一番最初に持ったのは、戸越銀座商店街です。

・・・荏原中延駅・・・
荏原地区と中延地区のほぼ中間にあることに由来する。 しかし、当駅が「荏原中延」と名付けられたのには池上線の前身である池上電気鉄道と、 大井町線の前身であるライバル会社の目黒蒲田電鉄との因縁説もある。当時、 池上電気鉄道は当駅を「中延駅」として設置する予定だったが、目黒蒲田電鉄が先に 荏原町駅と中延駅を開業させたため、それに対抗して「荏原中延駅」にしたというもの である。

・・・旗の台駅・・・
源頼信が平忠常追討(平忠常の乱)の際にこの地で旗揚げをして祠に戦勝を祈願した ところ成就した故事による。この祠は後に旗岡八幡神社が祀られ、地名も荏原郡荏原町 大字中延字旗ヶ岡で、旗の台駅は始は「旗ヶ岡駅」だった。
「旗の台」は大井町線の「東洗足駅」と池上線の「旗ヶ岡駅」を統合した時に誕生した 駅名であり、昭和40年の住居表示実施の際に地名も駅名にちなんで「旗の台」と名付けられた。

・・・長原駅・・・
地名(荏原郡馬込村字長原)に由来すると言われているが、文献によってはこの近辺の 地名は「長原」ではなく「小池(荏原郡馬込村字小池)」と書かれている。
池上線の前身の「池上電気鉄道」大井町線の前身の「目黒蒲田電鉄」があり 池上電気鉄道としては当駅を「荏原駅」、荏原中延駅を「中延駅」として開業させる予定 であったたが、池上電気鉄道より先に目黒蒲田電鉄「現・大井町線」の荏原町駅と中延駅 を開業させたため、「中延駅」になる予定だった駅を「荏原中延駅」と名付けたが、 現在の長原駅を「荏原駅」とすることは不可能な状況であった。

池上電気鉄道は、この一帯がかって「荏原(えはら)」と読まれて、地図や歴史書 によっては「荏原」ではなく「永原」と表記されていた点に着目して、その「永原」の 文字を読みやすく「長原」に変更して読みを「ながはら」にし、駅名の重複を避けた形 で荏原地区に駅を設置したという。
他の説としては、「中原」と称する駅が既に長崎本線中原駅や南武鉄道武蔵中原駅に 存在して重複するため、あえて「中原」を「長原」に変更したという説がある。

・・・洗足池駅・・・
この地域の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも 見られる。由来としては仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田であって、 千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源 として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。

のちに、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を 洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となった。

日蓮上人が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」(3代目)も残っている。池の北側の 中島には弁才天が祀られている。 駅のすぐ北側に位置する洗足池に由来する。

・・・石川台駅・・・
(昭和2年) - 開業時は石川駅としたが(昭和3年) - 「石川台」に改称。 駅の開業当時の所在地名である荏原郡池上村大字雪ヶ谷字石川に由来するものである。

この付近を流れる呑川は、この地域では古くから「石川(石川原)」と呼ばれており、 その「石川」がそのまま地名や駅名になったともいわれる 呑川は昔は石川と呼ばれていたという!

・・・雪谷大塚駅・・・
「雪ヶ谷」駅と「調布大塚」駅を統合して開業したため、二駅の駅名から採られた。 「雪ヶ谷」は開業当時、その所在地が荏原郡池上村大字雪ヶ谷だったことに由来する。 また「大塚」は、調布大塚小学校西北の稲荷社にある大塚古墳(正式名は鵜木大塚古墳) から付いた地名である。

大正12年 - 雪ヶ谷駅として開業。 当時の駅は現在より約百メートル五反田寄りにあった、 昭和8年 - 雪ヶ谷駅と調布大塚駅とを統合して現在の位置に移設。駅名は雪ヶ谷 昭和18年 - 雪ヶ谷大塚と改称し、さらに昭和41年 - 雪が谷大塚と改称した。

・・・御嶽山駅・・・
木曽御嶽山の修験者一山(いっさん)行者によって、この神社が木曽御嶽大神の示現の社 であることが明らかにされました。

一山は寝食を忘れ神徳の宣揚に勤めたために、村民をはじめ関東一円に崇敬者が激増し、 天保二年(1831)に現在の社殿を建立、御嶽神社を奉っている御嶽山に由来する。

・・・久が原駅・・・
「久が原」は、古くからこの付近が森や林の続いた土地だったことを意味する「木の原」 に由来する説。 1590(天正18)年久原村が馬込・六郷の2領に分割され、東部八幡神社、西部八幡神社の 東西二社となる 江戸初期に馬込領久河原は「馬込領久ヶ原村」と呼ばれたが、 中期以降は六郷領久川原も「六郷領久ヶ原村」と呼称するようになった。

・・・千鳥町・・・
所在地である「千鳥」の地名は近隣にある千鳥窪貝塚遺跡「大田区南久が原一丁目4番、 7番、8番」に由来する。

・・・池上駅・・・
地名の由来は洗足池(千束池)が本門寺の麓まであり、その周辺の村であったから、また、 蓮沼(池)の上部に位置する地域から「池上」と名付けられたとする説と、鎌倉時代の当地 の領主「池上右衛門太夫宗仲」の姓からつけられたとする説がある。

・・・蓮沼駅・・・
昔からこの地は蒲田と同様に池や沼などの多い湿地帯であり、そこに「蓮の群生」する 沼(蓮沼)があったことに由来する。

・・・蒲田駅・・・
湿地に溝を掘ると水が抜けて乾燥地が出来る。これを蒲池と呼ぶ、昔からこの辺り一帯は 沼地であり、それにちなみ泥深い田地を示す「蒲田」から来ている説や 沼の中の島などを意味するアイヌ語の「カマタ」、古朝鮮語でkamaは「大きい」を意味、 するなど、諸説ある。昔は「鎌田」とも呼ばれていた。奈良・平安時代から続く古い地名である。